
| 松尾芭蕉は元禄二年四月十八日奥の細道紀行の途中にこの殺生石を訪れ |
| 石の香や 夏草あかく 露あつし |
| と詠んでいます。 |
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〜教傅地蔵の由来〜
第九十六代後醍醐天皇の御代(一三一八年)の頃、奥州白河在の五箇村に蓮華寺と寺があり「教傅」と言う佳職がおりました。
この教傅うまれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとしてこの寺に預ってもらいました。その教傅も二十八歳になって、前の佳職の跡をつぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。
元亨元年(一三三六年)のことです。教傅は、二・三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことなりました。その日のことです。教傅は、母が朝食を用意してすすめると教傅はまだ旅仕度くも出来ていないのにと悪口を言いながら、お膳をけとばしてそのまま出発してしまいました。那須温泉に着いた教傅達はある日殺生石を見学しようと賽の河原附近まで行くと今まで晴れわったていた空が、俄かにくもり雷鳴が天地をゆるがし、大地から火災熱湯が噴き出し、連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。ふり向いて見ると「おれは寺を出るとき母の用意したお膳を足げりにして来た天罰をうけ火の海の地獄に墜ちて行く」と教傅が大声をあげ苦しみもがいております。友人がかけ寄り助けようとひきだしましたが、教傅の腰から下が、炭のように焼きただれており息をひきとってしまいました、それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと湧いていましたが、いつしか山津波に埋ってしまった。その後、湯本温泉の有志が、享保五年に地蔵を建立して供養を行い、親不孝のいましめとして参拝する者が後を断たなかったと言うことです。 |
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〜湯の花畑 (湯の花採取場)〜
那須温泉の人々は、徳川幕府の頃から、年貢米の代りに湯の花を納めていました。
湯の花とは「みょうばん」の事です。噴気のでるところに赤土をしめかため雨水がしみこまないようにして茅葺屋根を作ります。半年たつときれいに「みょうばん」が結晶し、花が咲いた様になります。
これを湯の花畑と呼び、春・秋年二回採取しました。「みょうばん」は皮膚病の薬や漬物の発色剤としてつかわれ現在は湯の花と呼ばれ入浴剤として使われています。 |
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| ◆教伝地蔵尊縁日◆ |
| 5月第3日曜日、殺生石において親不孝の教伝が天罰を受け、この地に没したのを供養するための建立された地蔵尊と家庭平和を祈念して建立された千体地蔵の法要をおこないます。 |
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